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電子図書館のその先は(2)

承前

 今までの「効率的に必要な情報が入手できる」環境整備は、結局自分たちの首を絞めていたのか。情報源と利用者の間に、図書館屋が介在する余地はまだあるのか。集団自殺にはまだ早い。

 図書館退屈男の主観に基づき、図書館での資料の電子化と提供手法の変化、利用者がアクセスするインターフェースの変化と提供主体の認知を表にしてみた.

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 ちょっと極端かもしれないが、OPACの利用あたりまでは電子化資料の提供は「図書館のサービス」として認知されていたが、近年では機関リポジトリへのアクセスの多くがGoogle等の検索エンジン経由であること、またNIIが「CiNii に格納された国内主要学術論文約 300 万件の論文データを、Google による情報の取り込み(クロール)の対象」としたことなどを考慮すると、利用者から見ればこれらが「図書館のサービス」とは見えにくいのではないだろうか。

 そしてJSTはJournal@rchiveによって国内で発行された学術雑誌のうち重要度の高いものを選んで創刊号から電子化する事業を巨費を投入して推進している。もちろん、現在のJ-STAGEのようにGoogleでのクロール対象となるはずだ。

 もちろん、検索の「入り口」を増やし、自組織で蓄積した学術論文の無料アクセスの道を広げることに異論はない。研究者から歓迎する声も高い

 しかし、これらのサービスのレイヤの中で、「図書館」の位置が中間に様様なサービスが介入することで最上位に位置する利用者インターフェースから相対的に低下する可能性はある。利用者との距離が開いてゆく、ということだ。

 例えば、リンクリゾルバにしても、アイコン等で上手にブランディングを確保していないと、

「文献データベースを使ったら[S.F.X]というアイコンがあったのでクリックしてみた。」
                 ↓
「オンラインジャーナルやILL申し込みのリンクが出てきたよ。」
                 ↓
「おお、論文全文が読めたよ。便利だなあ。」

という一連の流れの中で、「図書館が用意したリンクリゾルバやオンラインジャーナルへアクセスしている」という認知はされにくいように思う。

 一方で、機関リポジトリ系のメーリングリスト、DRFでも、

(真のユーザは外部のサービスシステムから直接アイテムに来る)
([DRF 0539],  SUGITA Shigeki)

アメリカの図書館員は、いまだに図書館のホームペー ジをユーザ(アメリカ流ですとパトロンでしょうか?)が見にくると思っている わけなのですね。
(中略)
同じ観点から、北大さんが中心のAIRwayにしても、千葉が始めてしまった Scirus連携にしても、研究者・学生の自然な情報探究作業のなかで、機関リポ ジトリ搭載の研究成果がひっかかってくるようにする試みだと考えています。
([DRF 0540], Syun Tutiya)

という意見が見られる。

 もはや図書館屋の主戦場は、今までのような図書館という「館」や自館のWebサイトでの籠城戦でなく、城から脱しGoogleや大手出版社/アグリゲータを上手に利用して各地にそのサービスを広げて形成されるものになろうとしている。

 電子化された環境下で発信者が見えにくくなる中で、自館のブランドと利用者の距離、認知度をいかに保つか、そこが問われるのだろうか。
 それとも、情報探求作業の支援に特化し、OSI参照モデルのうち一般ユーザには直接見えずにサービスのバックグラウンドを成すアプリケーション層の一サービスに移行してゆくのか。
ネットワーク技術者が、黎明期に表舞台で全レイヤに介在していた時代から、Web2.0で言われる「利用者が参加する」インターネットに変化してゆく過程の中で、次第に自らの専門である低位レイヤに特化して行ったように。
 ならば、図書館屋はどのレイヤで戦えばいい?

 それができるのなら、たとえ来館利用者が0になっても図書館屋の仕事は、まだ、ある、のか。あると信じたいが、図書館退屈男の心の底には「館」を捨てることへの抵抗がまだある。それは図書館屋の性なのか。


電子図書館のその先は

 仕事で落ち込むことがあったりちょっとした決断をしたり。そして一ヶ月ぶりのエントリ。
 でもOPACのXML出力WebAPIの説明を補記したり。今度はちゃんと使えます。きっと。

 本社での会議から戻ってきた課長から耳打ちされた。

「…図書館の来館者増に繋がるような施策を検討してほしい。」

 データベースとかじゃない。「図書館の来館者」だ。聞けば、上から年間の来館者数が少ないと判断され、来館者を増やすか「図書館機能の見直しを図る(閲覧機能の停止、と行間に書いてありそうだ)」の2択。来館者増 or die。

 当館の年間来館者数は4桁前半。周辺の各研究所にも図書室はあり、他館への依頼も含めて自機関で用は足りる。当館に来るのは「ここにしかない資料」を直接閲覧するか、各種データベースの検索支援が必要なユーザがほとんど。

 今までの取り組みを振り返る。

「全国どんな場所にいても、同じ環境で研究ができること。」
- Anytime, anywhere, anyhow, Collaborative Research Environment

 それを目標につくばから北は北海道の紋別から南は石垣島の山の向こうまで、全国に順次ネットワークを張り巡らした。
 10年かけて各研究所共用の図書館システムの導入と図書館業務の共通化、遡及入力による書誌データの整備、研修を行い、システム面でも人的資源の面でも向上を図ってきた。また、ネットワーク経由で文献複写も依頼でき、ILLは目に見えて高速化された。
 各種商用データベースも、MTでの購入と汎用機上での毎週の構築作業、従量課金からインターネット経由での商用サービスの定額利用に切り替え、そしてオンラインジャーナルの増加やSFXの導入により文献検索から原報入手までがほぼワンストップで行える環境が整った。
 それは全て研究者のため。

 そして現在。文献や必要な情報は研究室に居ながらにして入手できる。一方で、図書室の人影は目に見えて減った。「Google ScholarやPubMedがあるのに、本当に高価な商用データベースが必要なのか。」そんな声さえ聞こえる。

 ふと、「魂の駆動体」(神林長平、1995)を思い出した。「集中し続ける人間を詰め込むための現実空間が足りなくなったから、仮想の場へ人間存在をコンパクト化して送り込む」仮想空間、「HIタンク」。入ってしまえば仮想も現実も区別はつかないという不死の世界。今で言うSecondLifeのようなものか。ただし、HIタンクは片道切符。戻ってはこれない。そして描かれる主人公の「実体」への拘り。その拘りが、仲間と自ら設計し駆る「クルマ」の設計に没頭させる。90ページ(文庫版)近くに及ぶボディやサスペンション、エンジン設計を語り合い設計図に起こしてゆく描写には愛さえ感じられる。

 おかしいな。

 コンテンツサービスや既存の研究論文、ILLの手続きなど電子化が可能なものは、それが研究者を助けると信じてあらゆる手段で電子化を図ってきた。しまいには、OPACすらAPIの整備やWebブラウザ組み込みの検索ツールの実装により「OPACを提供するサーバ上の検索インターフェース以外でも」(HTTP的にはデータを"GET"しているので、「Webサイトを訪問」や「サーバ上で検索」という表現を使うのはあまり好きではないのですが)検索結果を得られるまでになった。RSSによるデータ配信に至っては、情報源となるサーバがデータをデスクトップに届けてくれる(ように見える。やっぱりGETメソッドだし。)。

 それらを手がけてきた自分が、なぜいまさら図書館という「館」や「物理空間」になぜ拘るのだろう。オンラインでの利用者さえ多ければ、それでよかったのではないのか。「電子図書館の構築」とは、究極的には全ての物理媒体を捨てて電子化し、ネットに完全に溶け込んだ図書館屋になることだったのか。そしてその仮想空間には、図書館屋は必要なのか。その中で何をサービスするのか。

 うまい答えが出せない。
 課長の宿題にも答えが出せそうにない。やはり自分は「実体」を軽視してきたのだろうか。

 「魂の駆動体」では、HIタンクの開発に関わった友人にこう語らせている。

HIプロジェクトは一種の集団自殺計画だ、そう思った。(文庫版 p.91)

 今までの「効率的に必要な情報が入手できる」環境整備は、結局自分たちの首を絞めていたのか。情報源と利用者の間に、図書館屋が介在する余地はまだあるのか。集団自殺にはまだ早い。


 明日は当所や周辺研究所の一般公開。当所はサイエンスカフェでお待ちしています。

 晴れるといいな。

[追記]

 「戦闘妖精・雪風」は(改)ではなく横山宏さんの表紙のほうがすき。OVA? メイヴちゃん? あれは自分の中ではジャムが作り出しだ幻影ということにになっています。