電子図書館のその先は(2)
2007/04/21
承前。
今までの「効率的に必要な情報が入手できる」環境整備は、結局自分たちの首を絞めていたのか。情報源と利用者の間に、図書館屋が介在する余地はまだあるのか。集団自殺にはまだ早い。
図書館退屈男の主観に基づき、図書館での資料の電子化と提供手法の変化、利用者がアクセスするインターフェースの変化と提供主体の認知を表にしてみた.
ちょっと極端かもしれないが、OPACの利用あたりまでは電子化資料の提供は「図書館のサービス」として認知されていたが、近年では機関リポジトリへのアクセスの多くがGoogle等の検索エンジン経由であること、またNIIが「CiNii に格納された国内主要学術論文約 300 万件の論文データを、Google による情報の取り込み(クロール)の対象」としたことなどを考慮すると、利用者から見ればこれらが「図書館のサービス」とは見えにくいのではないだろうか。
そしてJSTはJournal@rchiveによって国内で発行された学術雑誌のうち重要度の高いものを選んで創刊号から電子化する事業を巨費を投入して推進している。もちろん、現在のJ-STAGEのようにGoogleでのクロール対象となるはずだ。
もちろん、検索の「入り口」を増やし、自組織で蓄積した学術論文の無料アクセスの道を広げることに異論はない。研究者から歓迎する声も高い。
しかし、これらのサービスのレイヤの中で、「図書館」の位置が中間に様様なサービスが介入することで最上位に位置する利用者インターフェースから相対的に低下する可能性はある。利用者との距離が開いてゆく、ということだ。
例えば、リンクリゾルバにしても、アイコン等で上手にブランディングを確保していないと、
「文献データベースを使ったら[S.F.X]というアイコンがあったのでクリックしてみた。」
↓
「オンラインジャーナルやILL申し込みのリンクが出てきたよ。」
↓
「おお、論文全文が読めたよ。便利だなあ。」
という一連の流れの中で、「図書館が用意したリンクリゾルバやオンラインジャーナルへアクセスしている」という認知はされにくいように思う。
一方で、機関リポジトリ系のメーリングリスト、DRFでも、
(真のユーザは外部のサービスシステムから直接アイテムに来る)
([DRF 0539], SUGITA Shigeki)アメリカの図書館員は、いまだに図書館のホームペー ジをユーザ(アメリカ流ですとパトロンでしょうか?)が見にくると思っている わけなのですね。
(中略)
同じ観点から、北大さんが中心のAIRwayにしても、千葉が始めてしまった Scirus連携にしても、研究者・学生の自然な情報探究作業のなかで、機関リポ ジトリ搭載の研究成果がひっかかってくるようにする試みだと考えています。
([DRF 0540], Syun Tutiya)
という意見が見られる。
もはや図書館屋の主戦場は、今までのような図書館という「館」や自館のWebサイトでの籠城戦でなく、城から脱しGoogleや大手出版社/アグリゲータを上手に利用して各地にそのサービスを広げて形成されるものになろうとしている。
電子化された環境下で発信者が見えにくくなる中で、自館のブランドと利用者の距離、認知度をいかに保つか、そこが問われるのだろうか。
それとも、情報探求作業の支援に特化し、OSI参照モデルのうち一般ユーザには直接見えずにサービスのバックグラウンドを成すアプリケーション層の一サービスに移行してゆくのか。
ネットワーク技術者が、黎明期に表舞台で全レイヤに介在していた時代から、Web2.0で言われる「利用者が参加する」インターネットに変化してゆく過程の中で、次第に自らの専門である低位レイヤに特化して行ったように。
ならば、図書館屋はどのレイヤで戦えばいい?
それができるのなら、たとえ来館利用者が0になっても図書館屋の仕事は、まだ、ある、のか。あると信じたいが、図書館退屈男の心の底には「館」を捨てることへの抵抗がまだある。それは図書館屋の性なのか。